中国残留孤児裁判を支える大田の会が結成

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 7月22日大田区生活センターで中国残留孤児裁判を支える大田の会(以下「大田の会」)が結成されました。2002年12月20日、中国「残留孤児」629人が東京地方裁判所に国家賠償訴訟を起こしました。その後裁判は全国に広がり、現在12地方裁判所で約1500人が裁判をしています。大田区では33人の「孤児」が原告として参加しています。1945年日本敗戦時、「孤児」たちは幼くして中国に置き去りにされて中国社会において苦難の人生を過ごしました。50歳近くになってようやく日本に帰国したものの、まともな日本語教育も受けられず、ふさわしい職に就くこともできませんでした。そして今、日本での就職期間が短いため年金額も低く、約7割が生活保護を受けざる得ないという生活を強いられています。「孤児」たちはこのような悲劇は国が終戦直後から1980年を過ぎるまで「孤児」たちを帰国させる政策をとらなかったこと、帰国後の自立支援策が不十分だったことに原因があるとして、提訴したのです。大田の会は草の根でこの裁判を支える会としては全国で初めて結成されました。7月22日の結成総会には70名を超える多くの方々にご参加いただきました。原告が語る中国での苦しい生活や現在も続く日本での生活の困難さを訴える話に、会場からは涙をすする音が絶えませんでした。参加者からは「日本の誤った政策の中でこのような体験をされてきた方がいて、その後日本政府は何も責任をとっていないことに憤りを感じました」等の感想をいただきました。原告の話の後、原告たちは「ふるさと」「北国の春」の2曲を故郷の日本を想いながら歌いました。

 大田の会の会長には税理士の小岩幸春先生が就任しました。連絡先は東京南部法律事務所になりました。

 当面の活動は(1)10月頃、日本の敗戦による混乱で数々の悲劇を生んだ満州開拓青少年義勇軍を描いた映画「蒼い記憶」の上映会(2)全国でも取り組んでいる「100万人の署名」への参加です。大田の会では裁判の勝利はもちろん、戦争の悲劇や福祉に対する国の冷たい姿勢を訴えて、憲法9条の平和を守り抜き豊かな生活をつくるための活動を行って行きたいと思っています。大田区のみなさんのご協力を得ながら活動したいと思っていますので、よろしくお願い致します。

(東京南部法律事務所 泉 雅剛)

原告団のひとり、紺谷康子(大田区南蒲田在住)からのメッセージ

 中国残留「孤児」の多くは日本語がしゃべれないため、地域社会にとけ込めなかったり、就労の機会に恵まれないなど、同じ日本人でありながら厳しい生活を強いられています。みなさんとも相互理解をはかりながら、「100万人署名」を成功させたいと思います。ご協力のほどよろしくお願い致します。

紺谷康子さんのプロフィール

1936年 北海道網走市に生まれる。
1940年 4歳のとき、両親と満州に渡りロシア国境の街、琿春(コンシュン)に住む。
1945年 9歳のとき、父が兵隊に応召され、それ以降連絡が途絶える。
8月10日、琿春(コンシュン)から集団で避難するよう命令が下され、朝鮮国境の街、延吉(エンキチ)にあった満鉄社員寮跡に移り住む。ここで母親、妹が死亡。24歳の中国人女性に扶養されることになる。
1958年 長春にある大学に入学。
1963年 中国科学院長春応用化学研究所に入る。
1989年 日本に帰国。

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